幻の中津川
No.018 大阪中津のこと
/ お伝えする人:サラ /
明治まで、今の淀川はなかった
こんばんは、サラです。
今回は、中津の地名の由来である中津川についてご紹介いたします。
中津川は、今はない、現存しない河川です。
中津川は淀川の毛馬という場所から分岐して、また淀川に合流するという、
下の図の緑色の線のような河川でした。
ところが、中津川は河川の幅が小さく、
十分な水量を流せないため、たびたび洪水となり、
家屋浸水等を引き起こしていました。
そこで、明治の中頃に
赤色の線の淀川の川幅を広げることと、
まっすぐ海まで流すという大工事に着手しました。
その結果、中津川は、
図の太い河川で表現されている現在の淀川に、
統合される形となりました。
淀川の完成は、1909年(明治42年)だそうです。
参照
https://www.water.go.jp/kansai/nakatsu/history/photo01.html
消えた中津川と、受け継いだ中津村
中津川はなくなりましたが、
当時、中津川を名前の由来としていた中津村は残り、
現在の「中津」へと名前が継承されています。
ただし、現在の淀川の北側も中津村だったのですが、
淀川の改修にあわせて、現在の中津エリア(淀川の南だけ)にずいぶんと縮小されました。
中津川の痕跡
過去に中津川があったことを感じることのできる場所はほとんどないのですが、
2つだけ、痕跡があります。
1つは、中津川跡という石碑が、此花区高見1丁目にあります。
石碑には、寂しく「中津川跡」とだけ彫られています。
2つめは、正連寺川と六軒家川です。
元々は、中津川から分岐する形で、正連寺川や六軒家川がありましたが、
今は、中津川がなくなり、
逆に、正連寺川や六軒家川が残っています。
参照
Google map
中津の歴史、まだまだ奥が深そうです。
今日はここまで~
サラでした。
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